ほんとうにあった怖い話

怖い話をまとめて紹介するブログ[心霊写真][怖い話][全国心霊スポット][呪いの動画]等の情報。あなたはこのパンドラの箱を開けますか? ※あなたが体験した怖い話も募集しております。

    怖い話をまとめて紹介するブログ[心霊写真][怖い話][全国心霊スポット][呪いの動画]等の情報。あなたはこのパンドラの箱を開けますか? ※あなたが体験した怖い話も募集しております。

    カテゴリ: 「なつのさん」まとめ

    原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「なつのさん」 2010/08/03 07:09

    深夜十一時。僕と友人のKは、今はもう使われていないとある山奥の小学校にいた。
    校庭。グランドには雑草が生え、赤錆びた鉄棒やジャングルジム、シーソー。
    現在は危険というレッテルを貼られた回転塔もあった。
    僕とKはこの小学校に肝試しに来たのだった。
    本当はもう一人、Sという友人も来る予定だったのだが、あいにく急な用事が入ってしまった様で、二人で行くことになった。
    野郎二人で肝試しとは別の意味でぞっとするが、
    このKと言う奴は、幽霊を見るためなら他の条件が何だろうとお構いなしなのだ。ただ一つの条件を除いて。
    「……だってよー。一人じゃ『見た』っつっても誰も信じてくれねえじゃん?」
    もっともらしい理由だが、僕は知っている。こいつは実は怖がりなのだ。
    それでもって熱狂的なオカルトマニアで、心霊スポット巡りが趣味なのだ。
    しかしそんなKのおかげで、僕は普通なら見ることの出来ないものもいくつか見てきた。
    「Sのヤロウ正解だったなー、ここハズレだわ」
    「うーん……、確かにね。物音ひとつしなかったしなあ」
    ハズレならハズレでそれは有難いのだが、僕だって怖いものは怖い。でも興味はすごくある。
    6・4で見たいけど見たくない。分かるだろうかこの心理。

    というわけで、僕らはさっきまで学校内をウロウロしていたのだが、
    あいにくここで自殺したと言う生徒の幽霊は見ることが出来なかった。
    懐中電灯を消したり、わざと別々に行動したり、音楽室も理科室も怖々覗いたのだけれど、結局、何も出なかった。
    時間が悪かったのか、それともKが「くおらー、幽霊でてこいやーっ!」などと怒鳴りながら探索してたせいだろうか。
    そうして、僕らは幾分がっかりしながら、小学校のグランドに出たのだった。

    「で、どうすんの?帰る?」と僕はKに訊いた。
    Kは明らかに不満そうな顔をして、いつの間にか拾ったらしい木の枝で、地面にガリガリ線をひいていた。
    黙ってその様子を眺めていると、Kは地面に二メートル四方ぐらいの正方形を描いた。
    次いで、その図の中に十字線がひかれる。田んぼの『田』だ。
    Kが顔を上げて僕の方を見た。その顔から不満そうな表情は消えて、ににん、と笑う。
    「なあなあ、お前、『あんたがたどこさ』って知ってっか?」
    いきなり尋ねられ、僕は少しあたふたしながら、脳内の箪笥からその単語の情報を引っ張り出した。
    「知ってる。手まり唄だろ。毬つきながら、ええと……あんたがったどこさ、ひごさ、ひごどこさ、くまもとさ」
    「分かった分かった。……じゃあよ、『あんどこ』って知ってるか?」
    「あんどこ?」
    『それは知らない』と僕が首を振ると、Kは手にした木の棒で、今しがた地面に描いた図形、田んぼの田を指した。
    「『あんどこ』ってのは、この四つの四角の枠の中でな、リズムに合わせて飛ぶんだよ。
     右、左と基本は左右交互に飛んで、あんたがったどっこさっ、の『さ』の部分だけ一瞬前に飛んで、戻る。
     いいか?よく見てろよ」
    どうやら手本を見せてくれるらしい。
    せーの。
    「あんたがったどっこさあっ!ひっごさ。ひっごどっこさ!?くまもっとさ!くまもっとどっこさ?せんっばさあっ!!」
    大声を張り上げながら、Kは自分で作った図の中を前後左右にぴょんぴょん飛び跳ねた。
    「……とまあ、大体こんな感じだな。分かったろ?」
    と言われても、僕としては首を傾げるしかない。こいつは一体何がしたいんだろうか。
    分かったのは、やはりKはとてつもなく音痴ということだけだ。
    「今のが『あんどこ』 ……まっ、遊びだ。遊び」
    「へえ……で?」
    もしかして、それを僕にもやれと言うのだろうか。しかしKの顔にはまさにそう書いてある。
    「で、じゃねえよ。お前もやんだよ。二人で『あんどこ』」
    「やだよ。なんで僕がそんなこと」
    「何でってお前……しらねえの?
     ま、噂だけどよ。これ二人で目えつぶってやったら、なんか『別の世界』に行けるんだとよ」
    およ、と思った。せっかく小学校に来たのだから、ただ単に昔を懐かしんで子供の遊びをやろう、と言うわけでもないらしい。
    それなら面白そうだということで、僕はその『あんどこ』をやることにした。

    Kの説明によると、田んぼの田の形に区切られた四つのスペースの内、
    まず二人がそれぞれ左ナナメに相手が居る様にして立つ。
    それから目を瞑り、暗闇の中で『あんたがたどこさ』を唄いながら飛ぶ。スタートは左に。
    全てを唄い終わり、『ちょいとかーくーす』の『す』で前に飛んで終了、そこで目を開ける。
    何が起こるかはお楽しみ。
    注意事項として、歌を間違える、飛び方を誤る、相手にぶつかる、目を開けた時に田んぼの田からはみ出したら失敗。

    「んじゃ。行くぞ」
    「ちょっと待って」
    「何だよ?」
    「いや、ちょっと気になったんだけど。
     『あんどこ』が成功してさ。その、Kが言う妙な世界にもし行けたら、……帰ってこれんの?」
    するとKは「うはは」と笑い、「シラネ」と言った。
    「おいおい……」
    「まあいいじゃねーか。さ、はじめっか……。目を瞑れーっ!」
    まあいいのか?と思いつつも、僕は目を瞑った。
    せーの。
    あんたがったどっこさ……。
    「イテっ!」「あたっ」
    いきなり間違えた。慣れないと意外に難しいのかもしれない。
    「おいおいお前、ちゃんとやれって!」
    「あははのは。ごめんごめん。次は、さ?」
    「ったくよー」

    頭の中でシュミレーションする。交互に交互に……さ、で飛ぶ。

    いっせーの。
    「……いてっ」
    正面衝突。一瞬間違えたのかと思って謝りかけたが、よく考えてみると、僕は間違っていない。
    目を開けて見ると、Kが手刀をかざして「わりーわりー」。
    「次は本気で行くからよ」
    僕は何だか急に馬鹿らしくなってきたが、あと一回くらいはやってみようかと思う。

    いっせーのっせ。
    あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ、くーまもっとさ、くーまもっとどっこさ、せんばさ……、
    せんーばやーまには、たーぬきーがおってさ、それーをりょーしがてっぽでうってさ、にーてさ、やいてさ、くってさ……、
    ……それーをこーのはでちょいとかーくー
    「――せっ――」
    前へとんで、僕は目を開いた。
    四角の中に居た。成功だ。
    ちょっと誇らしい気持ちになって、僕はKはどうかなと思い振り返った。
    そこにKの姿は無かった。
    「……え?」
    右を見て、左を見て、もう一度右を見て。
    僕は、ははあ、と思う。全てはこのためだったのだ。
    『目を瞑ったままのあんどこ』などという凝ったことをさせておいて、Kは唄の途中でこっそり抜け出し、
    僕がおろおろするのを隠れて見て楽しむつもりなのだ。
    Kの奴め。
    僕は何とかしてKを見つけてやろうと思い、そこら中を注意深く見渡した。

    グランドに身を隠せるような場所は少ない。しかし、Kは見つからなかった。うまく隠れたものだ。
    そうして僕は、持っていた懐中電灯で地面を照らした。グランドにKの足跡が残っているかも、と思ったのだ。
    しかし、足跡は無かった。
    おかしい。
    その時だ、違和感を覚えた。
    僕らはさっき前後左右に飛び跳ねてたはずだ。
    足跡はともかく、その飛んで着地した痕跡までない。地面に見えるのは、Kが描いた図形だけ。
    僕は二歩三歩と歩いてみた。足跡はつく。これはおかしくないだろうか。
    辺りをもう一度見回す。誰も居ない。
    風の音もしない。さっきまでは吹いてたはずだ。そう言えば、虫の声も聞こえなくなった。
    「おーい……」
    おーい……、おーい、おーい……
    僕はその場に飛び上がった。
    Kを呼ぼうと叫んだ瞬間だった。まるでトンネルの中に居るかのように、僕の声が周囲にこだましたのだ。
    やまびこでは無い。ここは広いグラウンド。後ろに学校はあるが、何度も音が反響するなんて絶対におかしい。
    僕は途端に怖くなった。
    「なあっ、おーいっ!」
    二度目。返事は無い。僕の声だけが辺りにしつこくこだまする。
    ふと思い至って、ポケットの中の携帯電話を取りだした。
    圏外。確かにさっきまでは使えたのだ。学校の中でSからのメールも受信した。
    『別の世界』
    Kが言った言葉がふと頭をよぎる。
    ここは、もしかして、そうなのか。
    あんたがたどこさ。
    ここは、どこだ。
    小学校の入口に目を向けた僕は、『それ』に気がついてぎょっとする。
    発作的に走りだしていた。学校の外には車が停めてあったが、鍵は持っていない。
    それよりも、この小学校は山を少し上った位置にある。
    ここに来る時、小学校に入るすぐ前の道からは、下の街の夜景が一望できたのだが。
    そこは街を見下ろせる場所。
    絶句する。
    街が無かった。
    いや、正確に言えば、遠目ではあったがそこに街はあった。
    ただしその街には、明かりがただの一粒も灯っていなかった。街が黒い。いくら深夜でもあり得ない光景だ。
    僕はその場にへたり込んでしまった。
    ようやく確信する。僕は異世界への扉を開けてしまったのだ。
    帰る手段は知らない。
    ぞわぞわと、ゆっくり、足元から恐怖が這いあがって来る。
    どうしよう。
    僕は立ちあがって学校へと戻った。
    とりあえず何か考えがあったわけではない。あのままじっとしていて正気が保てるかどうか怪しかったのだ。

    学校の校庭。赤錆びた鉄棒、シーソー、回転塔。
    グランドの中央あたりに、Kが描いた図形。僕はその中に入って、再びへたり込んだ。
    何をしていいか分からない。Kを探そうか。でも無駄な気がする。
    「わっ!」
    意味も無く叫ぶ。こだまする。一体何なんだこの反響音は。
    僕はもっともっと、遮二無二叫びたい衝動を懸命に押し殺した。
    駄目だ。冷静になれ。
    人は考えに考えた末、壁をよけて通ることを覚える。これはたしか友人のSが気に入っていた言葉だ。
    考えなければ、アイデアは生まれない。考えろ、僕。
    そこで一つ思い至る。僕が今座りこんでいるこの地面の図形。
    僕はこの図形からここに来たのだ。『あんたがたどこさ』によって。
    では、同じことを繰り返せば、元の世界に戻れるのではないか。

    俄然元気になった僕は、図形の中に立つ。眼を瞑る。
    せーの。
    飛ぶ。唄う。間違えない様に、慎重に。
    「かーくー、……っせ!」
    どうだ。目を開く。
    風景に変わりは無い。しかし、静かだ。どうだ、僕は戻れたのか?
    「……わっ」
    ……わっ、わ、わ……
    こだました。僕は戻れなかったようだ。
    それから何度かパターンを変えて試してみた。
    スタートの位置を変えてみたり、飛び方を変えてみたり、Kの様に音痴に唄ってみたり。
    けれども、いずれも効果は無かった。
    もしかして、二人でなくては駄目なのか。一人では駄目なのか。
    一人。無音。暗闇。怖い。
    いかんいかん、冷静になれ。後頭部を叩く。考えろ考えろ僕の頭。
    もしもだ、僕が『あんたがたどこさ』によってここに来たとする。
    そうだとしたら、その歌詞に何かヒントが隠されていないだろうか。
    僕は『あんたがたどこさ』の歌詞を頭の中でなぞってみた。
    肥後……熊本……せんば山。そこで僕はふと思い至る。
    あの歌詞の中で隠されたのはタヌキだ。鉄砲で撃たれて、煮られて、焼かれて、木の葉で隠される。
    もしかして僕はタヌキ?だったらKは猟師だろうか。
    しかし、そんなことに気付いてもどうにもならないのだった。
    足元からじわじわ上って来る恐怖が膝を越えた。足が小刻みに震えだす。
    まずい、正気の僕に残された時間は割と少ないらしい。
    勘弁してくれ。僕だって怖がりなのだ。
    一人は怖い。いつもはどんな心霊スポットに行ってもそれほど怖くは無い。何故なら僕の隣にはSとKが居るからだ。
    そう言えば今日は三人じゃなかった。それがいけなかったのかもしれない。
    Sが今日来れなかった。急にバイトが入ったと言った。
    けれど先程、僕とKが学校の探索をしている時にメールが来ていた。
    その時の僕は廃校探索に夢中で、Sからだと知っただけでメール自体は見てなかった。
    それを思い出した僕は、ポケットから相変わらず圏外で役に立たない携帯を取りだした。
    操作してメール受信画面を開く。
    『今何処にいる?』
    それがSからのメールだった。それが分かれば苦労しない、と僕は思う。
    そうして僕は、足の震えと共に少しだけ笑った。
    このメール内容。あんたがたどこさ、じゃないか。
    「あんたがったどこさ。ひごさ、ひごどこさ……」
    僕は無意識の内に唄い出していた。そろそろ正気がやばい。立っていられなくなりそうだった。
    唄いながら、この足では毬を跨ぐことも出来ないな、と思った。
    「……くま……え?」
    足の震えが止まった。
    僕は気がついたのだ。その瞬間、堰を切った様に走り出していた。
    そうだ。
    あんたがたどこさ。
    そうだった。
    僕は走る。誰も居ない学校に向かって。走りながら呟く。
    「あんたがたどこさ。ひごさ、ひごどこさ……」
    そうだよ。あの唄は、元々……。
    「……手毬唄じゃないか!」
    可能性は見当もつかなかった。客観的に見て、まるで高く無いとは思う。何をどうすればいいかも分からなかった。
    けれど、何故か確信できた。これが元の世界に戻るやり方だと。

    僕は小学校の校舎脇を走り抜け、裏手に回った。目当ての建物は校舎じゃない。
    あった。
    体育館。
    入口に鍵はかかっていたけれど、床近くにある通風孔が一部壊れていたので、そこに身体を滑り込ませて中に入った。
    暗い。懐中電灯を付ける。しかし幽霊でもいいから出てほしい気分だった。
    体育館倉庫には幸運にも鍵は掛かっていなかった。錆ついて重たい扉をスライドさせる。
    中にはここが小学校として機能していたころの名残がそのまま置いてあった。
    目当てはバスケットボール。
    ほぼ全部のボールが空気が抜けて萎んでいたが、空気入れを見つけ、それを使ってボールに命を吹き込む。
    空気の入ったバスケットボールを持って、僕は体育館の中央に立った。
    床にボールを落とす。ダム、と音がして勢いよく跳ねる。再び両手にボールを抱え、僕は目を瞑った。
    深呼吸。
    いっせーのーせいっ!
    「……あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ……」
    唄い出すと同時にバスケットボールをつく。目を瞑ったまま。『さ』の部分で片足を上げボールの上を通過させる。
    ちなみに、僕は元バスケット部だ。
    「くーまもっとさ、くーまもっとどっこさ、せんばさ……」
    心臓が鳴っていた。また足が震えだした。
    唄いながら自分自身を鼓舞する。もう少しだ、頑張れ僕。
    「ちょいとかーくー、すっ!」
    最後に思いっきり力を込めてボールをついた。
    ボールは今までの最高速度で地面にぶつかり、僕の頭より高く上がったはずだ。
    そして僕は目を瞑ったまま、その場で足を軸に一回転した。意味は無い。自分でハードルを上げただけ。
    両腕を前に出す。この中にボールが落ちて来るのか。

    時間にすれば二秒は無かったと思う。でも長かった。
    腕の中にボールが落ちる感触はない。
    しかしいつまで経っても、ボールが床に落ちる音もない。
    しばらくそのまま目をつぶっていた。開けるのが怖かった。でも、足の震えはいつの間にか止まっている。
    深呼吸、一回、二回。
    僕は目を開けた。
    バスケットボールが消えていた。
    「……うわー」
    ……うわー……うわー、うわー……
    僕の声がこだまする。
    でもそれは体育館だったから当たり前だったのだ。そのことに僕が気がつくまでに相当の時間を要したけれど。
    耳を澄ませば、外で鳴く虫の声がかすかに聞こえた。
    僕は携帯を取り出す。アンテナが一本立っていた。
    信じられないだろうが、携帯のアンテナが一本立っていたことに、僕は本当に飛び上がって喜んだのだ。
    その瞬間、僕の手の中の携帯が鳴った。
    Sからだった。急いででた。
    『……よお。ところでお前さ。いま、小学校にいるのか?』
    Sの声。不覚にも泣きそうになりながらも、僕は「うん、うん。そうだよお!」と大声で返事し、若干ひかれた。
    がんっ。
    体育館にすさまじい音が響く。
    何事かと思って音の方を見ると、丁度体育館の裏口が蹴破られて、息を切らしたKが中に入ってきた。
    そうしてKは懐中電灯をこちらに向けた。
    「お。……おおう。こんなとこに居やがった。……マジでありえねーし。
     目え開けたらいきなり居ねえんだもん……マージーありえねえよまったくよお……」
    そう言ってKは「あーうー、だあーもう疲れた……」と、体育館の床にだらんと寝そべった。
    電話の向こうでSが何か言っている。
    僕は黙っていた。
    戻ったら絶対一発ぶん殴ってやろうと思っていたのだけれど、
    体育館の床の上で「うーんうーん疲れたよーい」と唸りながら転がるKを見ていると、何だかその気も失せた。
    僕は受話器を耳にあて直し、Sに向かって言う。
    「とりあえず、帰るよ」
    『ん?……おう、そうか』
    それから、帰りにSの家に寄る約束をして電話を切った。
    そうして、まだ床でごろごろしているKを軽く一発蹴ると、
    実はぼろぼろ泣いていた奴を引っ張り起こして、二人で車まで戻った。
    運転席に座ったKが鼻をすすりながらエンジンをかける。

    小学校から少し降りると、街の夜景が見えた。
    助手席の窓から見たそれは、僕にとって今まで見たどんな夜景よりも綺麗で。
    それは決して、僕の目が涙で滲んでいたからでは、ない。
    しかしながら、自分で言うのもなんだが、
    不思議なことに、これだけの経験をしても、もうこりごりだとは思っていない。
    あんたがたどこさ。
    どこでもいいよ。けれど、次は三人で行きたいなあ、と思う。

    原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「なつのさん」 2010/07/31 03:20

    それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏もおわりかけたある夜の出来事だった。
    「……この家だってよ。出るって有名な家」
    僕とKはその二階建ての一軒家を、周りをぐるりと囲む塀の外から眺めていた。
    風は存外に冷たく、そういう季節はもう過ぎたのだと感じる。
    なのに、僕らはまた肝試しに来てしまっていた。僕とKとS、いつものメンバーだ。
    発案者はKだ。奴のオカルト熱は季節に関係なく、いつでも夏真っ盛りらしい。
    「二階あたりに女の霊が出るって噂。今はー……見えねえけどな。窓に映るらしいぜ」
    Kの言葉に、僕は二階の窓を懐中電灯で照らした。
    Sはというと、道の脇に停めた車から出てこず、運転席側の窓から右肩と頭だけを出して、つまらなそうに家を眺めていた。
    「おいS、出てこいよ。なに一人だけ車乗ってんだよおめーはよ」とKが言う。
    Sは大きなあくびで返す。
    「……さみーんだよ。それに、誰がここまでずっと運転してきたと思ってんだ。……俺は寝るぞ」
    Sはそう言って、車の中に引っ込み窓を閉めてしまった。
    「Tシャツ一枚で来た奴がわりーんだよ」と Kが、かかか、と笑う。
    でも確かに今日の夜は存外冷える。
    おそらく朝から曇っていたことが原因だと思うが……。お天気おねいさんは何と言っていただろうか。
    そんなことを考えながら、僕はもう一度窓を見上げた。
    ちなみに、僕とKがいる位置とSが乗る車の間には、この家の門がある。門は内側に開いていた。
    でも、今日は不法侵入はしない。外から眺めるだけだ。理由は、ここがそういうスポットだから。
    「噂じゃ女……っていうかここの家の娘な、事故で下半身が動かなくなったんだってよ。
     それから女はショックで段々頭がおかしくなって、そのせいで両親はその女を、自宅にずっと閉じ込めてたんだと。
     ビョーキ家族だな」
    と隣でKが言う。
    いつもならここらでSの鋭いツッコミが入るのだが、上がTシャツ一枚の人間にとっては、この寒さは多少分が悪い。
    「で、事件は起きるわけだ。その女が夜、寝ている両親の首をナイフで掻っ切って、自分も自殺したんだな」
    「……自殺?」
    と問い返しながら、僕は何だか周りがさっきよりも寒くなった気がした。背筋がぞわぞわする。
    「首吊りだってよ。首つり自殺。こう、ロープにぶら下がって、ぶらんぶらん揺れてたんだと」
    Kが舌をべろんと出し、身体を揺らす。
    しかし、僕はその時Kの話に違和感を覚えた。女は両親を殺して首吊り自殺をした。けれど、その女は確か……。
    「……でもさ、それって、おかしくないか?」
    「あ、何が?」
    「足も動かないのに、どうやって首吊るんだよ」
    「どうやってって。そりゃお前……」とKが何か言おうとしていたその口が止まる。
    ぞわり、と冷たいものが僕の首筋を撫でた。
    それはまるで、大きなつららを直接背中に当てられた様な感覚だった。足から頭まで、全身に鳥肌が立つのが分かった。
    僕とKはほぼ同時に二階の窓を見上げた。
    二階の一室の窓が徐々に開いていた。ゆっくり、音も無く。
    隙間に女の顔が見えた。
    髪がぼさぼさ。大きく見開いた目が、僕ら二人を見据えていた。
    窓は開く。隙間が広がり、その首にロープが見えたその時、女は一気に窓の僅かな隙間から外へと身を乗り出した。
    女が頭から落ちる。途中で、その首に巻いてあったロープが落下を食い止めた。
    がくんと女の身体が上下に反転し、二階の窓を支点に振り子運動を始める。
    ぶらん、ぶらん。
    枯木のように細い足。その手にはナイフらしきものが握られている。一つ、二つ、三つ。
    その身体が痙攣した。ナイフが手から落ちる。その手が宙を掻く。音は何も無い。
    その内、女の両手がだらりと下に垂れさがった。口が開き、真っ赤な舌がその中に覗いていた。
    死んだのか、死んでいるのか。しかし女の目だけは、未だこちらをぎょろりと見据えていた。
    僕の口から何か悲鳴のようなものが出ようとしていた。
    と、僕の首筋に冷たいものが当たった。
    「ふひゃっ」
    僕はついに悲鳴を上げて、実際飛び上がった。
    雨だった。
    しかし、雨のおかげで一瞬だけだが気がそれた。
    それから、はっとしてまた二階を見上げたが、そこにはもう何も無かった。首を吊った女の姿も、窓も、閉まったままだった。
    「……ああやって、首を吊ったんだとよ」
    隣を見るとKは笑っていたが、無理をしている笑いだと一目で分かる。でもその時は僕も同じ笑いを返していたに違いない。
    なるほど、確かにあの方法なら足が不自由でも首が吊れる。
    すごいものを見たな。と僕がKに言おうとした時、
    ――どさり――
    僕とKはまた、ほぼ同時に反応した。
    何かが落ちた。塀の向こう側。それから、ズル、ズルと布が擦れる音。
    先程見た首吊りには音は無かった。しかし、今度は音だけがある。
    僕とK、それとSが乗る車の間にある門。門は開いていたのだが、そこから手が出てきた。
    さっきの女の手だ。ナイフを握っている。もう片方の腕も出てきた。
    次いで頭。首にはロープ。白い服。見開いた眼。垂れた舌は地面を舐める。
    僕はSに助けを求めようとした。しかし声が出ない。身体が動かない。金縛り。Kも同じらしかった。
    どうしよう。こっちにゆっくり這い寄って来る。足は動いてない。手だけで地面をずるずると。
    怖い。それに近い。怖い近いこわい近っ。
    這い寄る女と僕らの距離はもう二メートルも離れてなかった。あ、もう駄目かも。本気でそう思う。
    突然、光に目が眩んだ。
    エンジン音とブレーキ音。
    気がつくと、僕らが乗ってきた車が目の前にあった。金縛りが解け、身体が動く。
    身体は動いたが、僕はしばらくその場を動けなかった。
    ウィームと運転席側の窓が開き、Sの眠たそうな声が聞こえる。
    「……おいお前ら、もういいだろ。雨が降ってきたから帰ろうぜ」
    僕とKは顔を見合わせた。
    おそるおそる車の下を覗くが、そこには何もいない。
    「こいつ……」
    Kが呟く。
    「……轢きやがった」
    「あん?ああ、そういや妙な手ごたえがあったな。でかいカエルでもつぶしたか?」
    僕は何も言えないでいた。KもSをまじまじ見つめるだけだった。
    そんな僕らにSは怪訝そうな顔を見せ、
    「どうしたお前ら。なんかあったか?……ま、何を見ても聞いてもだ。そりゃ幻覚に幻聴だ。ほら、乗れ。もう帰るぞ」
    僕とKはもう一度顔を見合わせ、お互い何も言わずに車に乗り込んだ。
    それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏も終わりかけたある夜の出来事だった。

    原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「なつのさん」 2011/04/07 06:20

    大学もバイトも、何もイベントのない日。昼寝から起きると、時刻は午後五時になろうとしていた。
    携帯を見ると、一通のメールが届いている。知り合いからだ。
    その人とは、大学一年の時にボランティアを通じて知り合った。メールもボランティアメンバー全員に宛てたものだった。
    メールの内容は、『○○公園のソメイヨシノが開花したよ』 というちょっとしたお知らせ。
    大きく拡大した桜の花びらの写真も添えてある。
    四月四日のことだった。
    僕の家の近くには、桜の名所として全国的にもそれなりに有名な公園がある。
    標高二百メートルくらいの小さな山の山頂にある公園で、
    山には桜並木の他に、広いグラウンド、美術館、寺、展望台、また山頂に繋がるロープウェイもあり、
    地元の人はそれら全てをひっくるめて○○公園と呼んでいた。
    休日となると観光客も訪れ、春には花見客が地面に敷くブルーシートで公園中が青くなる。そんなにぎやかな場所だった。
    夕食の食材を買いに行くついでに桜を見に行こう。そう思い立った僕は、簡単に身支度を済ませて原付に跨った。

    山に沿って建てられた住宅街からカーブの多い山道を上り、○○公園へ。
    いつもは子供たちが野球の練習をしている公園敷地内のグラウンドの端に、原付を停めた。
    風はなく、上着は必要なさそうだ。
    僕は公園全体をぐるりと一周するつもりで歩きだした。散歩コースとしても、この公園は中々良い。
    事実、平日の夕方にも関わらず、何人か犬を連れて散歩する人や、ジョギングをしている人とすれ違った。
    道の脇に植えられた桜は、見たところ二分咲きほど。開花したと言ってもまだ蕾の方が多い。
    それでも、人はいないが屋台のテントを三つほど見かけたり、
    大学生らしき若者たちが数人、ベンチのある広場に集まってお酒を飲みながら騒いでいたりと、
    花見シーズンがもうそこまで来ているのだと感じさせる。
    僕はだらだらと歩き、立ち止まっては桜を見上げ、また歩く。
    桜並木から少し離れ、右手にグラウンドが見える坂を下る。

    左手に、今はもう誰も住んでいないだろう廃屋の横を通り過ぎた時だった。
    廃屋の向こう側に道がある。立て札があり、『○○墓地入口』 と書かれている。
    この辺りに墓地があることは知っていた。けれど、その墓地へと続く道の脇にはもう一つ道があった。
    おや、と思う。知らない道だ。
    ちょっと覗いてみる。林の中へ分け入る道。
    舗装はされておらず、折れた木の枝などが所々に落ちていて、頻繁に人が使っているわけではなさそうだ。
    人とすれ違うのにも骨が要りそうなほど細い道が蛇行しながら、こちらから見れば下向きに伸びている。
    どこに繋がっているのかは分からなかった。
    どうせ暇だから来たんだしと思い、僕はその道を下りてみることにした。
    知らない道を行くのは、何だか冒険をしているようでワクワクする。

    顔面に蜘蛛の巣の特攻を受けながら少し進むと、木々の隙間、眼下に、僕が原付で上って来た側の住宅地が見えた。
    帰りがけに寄ろうと思っていたデパートの看板も見える。
    あの辺りに出るのかと思いながら、もう少し歩を進める。
    すると、前方に分かれ道があった。下っている右の道と、若干上りになっている左の道。
    どちらかと言えば右の方がちゃんとした道に見えたので、僕は右の下りる道を選んだ。
    思った通り、その道はデパート近くの住宅地に出た。
    傍らにはお坊さんを彫ってある大きな岩があって、
    その横の朽ちかけた立て札は、『思索の道。この先○○寺』 と辛うじて読める。

    来た道を逆に、分かれ道まで戻る。
    さて、どうしようか。結局、僕は来た道は選ばず、まだ行ってない方の道へと進むことにした。
    小さな山だ。きっとどこか知った道に合流するだろうと、そう思っていた。
    この時、僕はまだ好奇心に支配されていた。

    それから少し歩くと、道のすぐ傍らに一匹の痩せた犬が横たわっていた。
    歩を止める。
    ぴくりとも動かない。しばらく見やって、死んでいるのだと知った。
    小バエが数匹、辺りを飛び回っていた。毛並みは茶色。
    腐敗はそこまで進んでいないようだったが、耳の根元が黒ずんでおり、眼球がなくなっていているのが分かった。
    そこからハエが体内に出たり入ったりしている。
    どうしてこんなところで死んでいるのだろう。
    野良犬自体なら、この公園近辺には多くいる。観光客がくれる餌を求めてやって来ているのだ。
    けれど、目の前で横たわる犬は首輪をしているように見えた。
    そのまま犬の傍を通り過ぎ前へと進むか、そうでなければこのまま引き返して来た道を戻るか。
    僕は選ばなければならなかった。
    少しばかり迷う。
    そうしてから、僕はゆっくりと足を前に踏み出した。
    正直、死骸は怖かった。いや、怖いというよりは、ただの毛嫌いだったのかもしれない。
    ドラマなどで見る安っぽい死ではなく、目の前の犬の肉体は限りなくリアルだった。
    そうして、だからこそ、気持ち悪いから逃げ帰るなんて失礼だと思った。
    死骸の様子を間近で見る。途端に一つ心臓が跳ねた。
    首輪だと思っていたものは傷口だった。
    喉元がばっくり開いていて、そこから染み出した血が黒く固まり、首輪のように見えたのだ。
    犬同士の喧嘩の末にこうなったのだろうか。
    しかし、傷口は噛み痕には見えず、何か刃物で切られたようにまっすぐ喉を裂いていた。
    注視したせいか吐き気を覚える。やっぱり引き返した方が良かっただろうか。
    白い歯が覗く半開きの口は、僕に何かを訴えているようにも見え、
    頭が勝手に、目の前の死骸がいきなり喋り出す様を想像した。
    ただの穴となった眼窩から蠅が飛び出して、僕の胸にとまる。不安と一緒に払いのけて、犬に向かって手を合わせた。
    そうして僕は犬の死骸を背に、その先へと進んだ。
    先程も書いたが、僕はこの道は、
    どこか住宅地から寺や公園へ上がるいくつかの道のどれかに合流するんだと、勝手に思いこんでいた。

    犬の死骸のあった場所からもう少し進むと、足元に道は無くなり、閑散と木の生えた場所に出た。
    見たところ、行き止まりのようだった。
    目の前の木の枝に、キャップ帽とトレーナーが一着引っかかっていた。二つとも色が落ちくすんでいる。
    その木の根元には、蓋の取っ手が取れたやかんがあった。
    やかんの向こうには、トタン板と木材が妙な具合に重なり合って置かれていて、
    傍にコンクリートブロックで出来た竈のようなものがある。火を起こした跡もあった。
    その他にも、辺りには金色の鍋や、茶色い水の溜まったペットボトル、ボロボロの布切れ、重ねて置いてある食器類、
    何故か鳥籠もあった。中には鳥ではなく、白い棒きれのようなものが何本か入っていた。
    一瞬それが骨に見えて、ギョッとする。でも鳥の骨にしては大きい。だったら骨じゃない。
    けれどもじゃあ何なのかと問われると、僕には答えられなかった。
    いずれにせよ、それらは確かにこの場所で人が暮らしていたという痕跡だった。
    崩れたトタン板や木材は家の名残だろうか。
    そこにある品々の古さや具合から、今もここに人が寝泊まりしているとは考えにくかったが、
    林の中で忽然と漂ってきた生活臭は、あまり気持ちの良いものではなかった。
    すでに冒険心は小さくしぼんで、代わりに不安という風船が大きく膨らんできていた。
    ホームレスだろうか。
    つい先程見た犬の死骸を思い出す。関連があるとは思いたくないが。
    いずれにせよ、こんなところでこんなところの住人と対面するのは極力遠慮したかった。
    ただそうは言っても、来た道を引き返し、またあの犬の死骸の脇を通るというのも気が進まない。
    辺りは徐々に暗くなり始めていた。時刻は午後の六時を過ぎている。
    他に道はないかと、僕は周囲を見回した。
    すると、行き止まりかと思っていた箇所に、辛うじてそれと分かる上へと続く道があった。
    戻るか進むか天秤にかける。僕は迷っていた。
    この道が本当にどこか知っている道に合流している、という自信は霞みかけていたし、
    犬の死骸を踏み越えても元来た道を戻るのが正解に思えた。
    その時だった。
    気配を感じる。微かに枝を踏む音。僕がやって来た方の道から聞こえた。誰かがこちらへやって来る。
    新たな重りが加わり天秤が傾く。僕は咄嗟に新しく見つけた道へと進んでいた。
    僕のような好奇心でやって来た者か。もしくはここに住むホームレスか。どっちにせよ、遭遇はしたくない。

    急な道だった。
    道の途中にはもう数ヶ所、人の寝床と思しき箇所があった。
    それは大きく突き出た岩の下に造ってあったり、小型車程の大きさの廃材を使ったあばら家だったり、
    ある程度密集したそれらは、まるで集落のように見えた。
    上って行くにつれて道は霧散し、もうケモノ道とも呼べないただの斜面になっていた。
    それでもしばらく上ると、たたみ二畳ほどの広さで地面が水平になっている場所に出た。
    そこにも人の生活の気配がうかがえた。
    灰の詰まった一斗缶。黒い液体が溜まった鍋。木の根もとに並べられたビールの缶。枝に吊るされたビニール傘。
    先の欠けた包丁。そして小さなテント。
    僕は足を止めてそのテントを見やった。異様だったからだ。
    三脚のように木材を三本縦に組み合わせて縛り、その周りをブルーシートで覆っている。
    高さは僕のみぞおち辺りで、人が入れる大きさではなかった。
    一体、何のためのテントなのか。テントの周りにはハエが飛んでいた。
    虫の羽音。
    そして、羽音とはまた別の音が聞こえる。
    タ。
    タ。
    タ。
    それは、閉め忘れた蛇口から落ちた水滴が、シンクを叩く音に似ていた。
    地面と僅かにできた数センチの隙間。覗くと、銀色をした何かがテントの中に置かれていた。
    鍋のようだった。おそらく鍋は受け皿で、あの中に水滴が落ちている。
    ハエが飛ぶ。僕の心臓がやけに早く動く。
    異臭。
    僅かに風向きが変わったのか。
    生臭い匂いだった。以前にも嗅いだ事がある。確か小さな頃、目の前で交通事故が起こった時だ。
    匂いの質は同じだけれど、あの時よりももっと酷い匂い。
    鼓動が骨を伝わり、足が震えだした。
    どこか遠くで犬の鳴き声がした。公園に住みつく野良犬だろうか。首を切られ、横たわって死んでいた犬を思い出す。
    現在、テントの外に置いてある鍋の中には、なみなみと黒い液体。赤黒い液体。いや違う。血だ。血の匂い。
    タ。
    タ。
    タ。
    水滴がシンクを叩く音。
    僕は混乱していた。
    はやくこの場から去りたいのに、足が動かなかった。
    それどころか、足が勝手に動き、自分の腕が青いテントに向かって伸びていた。
    めくろうとしているのだ。中を見ようとしているのだ。
    やめろ。
    声は出ず、心の内で叫ぶも、僕は止まらなかった。
    そうして僕は、ブルーシートをめくった。
    臭気が這い出て来る。何匹かのハエが、僕の行動に驚いてかテントの傍を離れた。
    息を飲んだ。
    中には一匹の犬が逆さに吊られていた。喉元が裂かれていて、傷口から血が鍋の中へ滴り落ちている。黒犬だ。
    舌が垂れ、見開いた目が地面を睨んでいた。
    タ。
    タ。
    タ。
    血が鍋の底を叩く音。
    僕の手が驚くほど緩慢な動きでゆっくりとシートを元に戻した。
    足も手も震えて、声にならない声が腹の奥から上がって来て、今にも叫びだしそうだった。懸命に自分を押さえる。
    息が荒くなっていた。上手く呼吸が出来ない。
    その場にしゃがみ、胸の辺りを掴み、目を瞑り、落ち着くまで待とうとした。
    「何しゆうぞ」
    人の声がした。
    振り向くと、そこに人間がいた。
    どうやら僕は自分のことに精いっぱいで、近づいて来る足音にも気付かなかったらしい。
    男だった。赤いニット帽を被っている。革のバッグを背負い、黒いジャンパー、履いているのは青いジャージだ。
    顔には無数のしわが刻まれていて、頬が少し垂れている。
    年齢は良く分からなかったが、六十代の半分は過ぎているだろうか。
    男は、ぐっと腰を曲げて、しわの延長線上のような細い瞼の奥にある光の無い目で、僕のことを見つめていた。
    僕は何も反応ができなかった。
    男はそれから青いテントに目を移した。
    「……ああ、ああ、見たんか。兄ちゃん。そうか」
    ぼそりぼそりとそう言って、それから低く笑った。
    「見えんようにと、被せたんにのう」
    その時の僕は、今しがた見てしまったモノに対するショックと、突然現れたこの人物に対する驚きで、
    身体も精神も固まっていた。
    どうやら人間は、許容量を遥かに超える負荷をかけられると、肝心な部分がどこかへ行ってしまうらしい。
    男はその手に犬を抱いていた。死んでいる。僕が先程見た眼球のない犬だ。
    僕は夢でも見ているようなぼんやりとした心持ちで、その光景を眺めていた。
    「ああ、こいつか?こいつぁ、おれの犬だな」
    男は僕の視線に気がついたのか、そう言った。
    「こいつぁな、野村のヤツが殺した。おれが留守にしとる間に。……そうにきまっとる。
     犬嫌いやけぇあいつは……、俺の犬や言うとろうが。俺が骨もやっとったし、紐もつけとる。やのに、野村のヤツが……」
    ぶつぶつと誰もいない茂みへ忌々しげに吐き捨てると、男はもう一度僕の目を覗きこみ、こう続けた。
    「兄ちゃん。勘違いしたらいかん。……こいつは食わんぞ?俺の犬やきの」
    男は歯がだいぶ欠けていた。
    僕の中の糸が切れた。いや、繋がったのかもしれない。
    僕は起き上がり、その場から逃げた。
    どう逃げたのかは覚えていない。ただやみくもに斜面を上ったような気がする。
    途中、転んだかもしれない。悲鳴を上げたかもしれない。何も覚えてない。

    気付けば、僕は見知った道の上に立っていた。道の向こうに原付を止めたグラウンドが見える。
    傍らに見覚えのある、墓場へ誘導する立て札。
    立て札の脇には、僕が好奇心をくすぐられて入ったあの細い道の入り口があった。
    いつの間にか僕は入口に戻ってきていたのだ。
    息が切れていた。近頃運動らしい運動もしていなかったからか、身体のあちこちが痛かった。
    見ると、気付かないうちに手の甲に怪我までしていた。
    しばらくの間、僕はその場に立ち尽くしていた。
    張りつめていた緊張感が爆発したツケか、頭の中で余熱が暴れ回っていた。
    これが冷めない限り、正常な思考は出来そうもない。
    目を瞑ると、先程見た様々な光景がフラッシュバックした。
    時間はどれくらい経っただろう。陽はもう西の山の向こうに沈んでいた。
    僕は歩きだした。

    グラウンドの傍にある自販機で350ミリリットルのお茶を買うと、一気に飲んだ。
    火照った身体と頭が、それで少し冷えた気がした。
    遠くの方で誰かが笑っている。
    この公園にやって来た当初にも見た若者たちが、未だ桜の要らない花見を続けているのだろう。
    腹の中の全てを絞り出すように大きく息を吐く。
    もう少し日にちが経てば、満開の桜の下、公園はたくさんの花見客でにぎわうことになる。
    それは毎年繰り返される当たり前の光景だ。
    けれども、そんなにぎやかな場所から林のカーテンを一つ隔てた先には、全く別の世界がある。
    僕は今日、それを知ってしまった。
    思う。
    あの男はホームレスだろう。
    そして、テントの中で吊るされていたあの犬は食料だ。最後に聞いた男の言葉がそれを物語っていた。
    頸動脈を切られ、吊るされて、血抜きをされていたのだ。
    犬を食べる。
    聞いたことはあった。タイや韓国などアジアを中心とした国では、市場の店先に普通に犬の肉が置かれていることもあると。
    捌き方や調理法さえ知っていれば、日本の犬だって食べれないことはないだろう。
    ましてや調達の手間を考えても、観光客から餌をもらうのに慣れた犬など捕獲し殺すのは簡単だ。
    野良犬ならば、動物愛護団体にでも見つからない限り、法的に罰せられることもない。
    別にあのホームレスが何かをしたわけではない。
    魚を釣って料理していたのと同じだ。生きるために他の動物を食べることを止める権利など、誰も持っていない。
    ふと、目の前を犬を連れた女の人が通り過ぎた。散歩が終わり、愛犬と自宅に戻るのだろう。
    首輪に繋がれた小さな犬が、僕に向かって一つ吠えた。血の匂いでも嗅ぎ取ったのか。
    犬だけを特別扱いする理由はない。その理屈は分かる。
    でもやはり、もやもやとした何かは残った。嫌悪感と言っても良い。僕でなくても大抵の人はそうだろう。
    僕の家では犬は飼ってはいなかったけれど、祖母の家が飼っていた。可愛い犬だった。
    あの男だってそうだ。男は『自分の犬は食わない』とそう言ったのだ。
    ペットとして飼っていたのだろうか。餌はどうしていたのだろう。
    鳥籠の中にあった骨を思い出した。自分が食べた後の犬の骨。そこまで考えて、止めた。
    人に飼われる犬。人に喰われる犬。犬を喰う人。犬を飼う人。
    遠いようで、それらを隔てる壁は案外薄いのかもしれない。
    少なくともこの場では、その隔たりは閑散とした林だけだった。
    それとも、二つは完全に分かれていて、僕が迷い込んだことがただの例外だったのだろうか。
    異界。
    そんな言葉が思い浮かんだ。大げさだと自分でも思う。
    僕は首を振って、重い腰を上げた。帰ろう。そう思った。
    これから何をしようという気はなかった。夕飯の買い物に行く気にもならなかった。
    公園に野良犬が多いと保健所に苦情を言う気も、ホームレスをどうにかしてくれと役所に頼む気も。
    声が聞こえる。もう暗いのに、若者たちはまだ騒ぎ足りないようだった。
    原付に跨り、エンジンをかける。
    それでも、今年はここでの花見には来れそうもない。
    走り出す直前に、ふと犬のなきごえが聞こえた気がした。
    けれどもエンジン音のせいで、それが本物かどうかは僕には分からなかった。

    原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「なつのさん」 2010/07/29 22:05

    僕が小学校低学年の頃の話だ。

    学校も終わり、僕は一人帰り道を歩いていた。
    そして、ふとした何気ない思い付きから、今日は別のルートで家まで帰ろうと決めた。
    いつもは使わない、人通りの少ない山沿いの道。
    家までは大分遠回りだけど、僕は随分楽しげに歩いていた記憶がある。
    昔はそういう無意味なことに楽しさを見い出す子供だったのだ。

    さて、そんないつもと違う帰り道。僕はふと、ある不思議なものを見つけた。
    車一台分の幅しかない道、進行方向に対して左は林で、右は小さな池だったのだけど、
    その右の池から、何やら白く細いものが空に向かって伸びていた。
    その時の僕が『空に向かって伸びている』と思ったのは、単純な話、空に何にもなかったからだ。
    木々の枝が伸びているわけじゃない。飛行機が、鳥が飛んでいるわけでもない。
    最初、僕は煙かなと思った。でも水のある池から煙というのもおかしい。
    別に水面に浮かぶ水草が燃えているわけでもないようだった。
    ガードレールに腕を乗せ、僕はその白い細い物体をじっと見つめた。
    それはどうやら、糸の様だった。白い糸だ。
    僕は白い糸を辿って空を見上げた。
    白い糸は上空に行けばいくほど、空に点在していた雲と同化して見えなくなる。
    天へと伸びる糸。
    当然、不思議だなあと思った。
    けれど、その時の僕には、でもそこにあって見えるんだから仕方ないだろう、という確固たる諦めがあった。
    見上げていると、上空で、チカ、と何か光った気がした。
    時間がたつにつれ、光ははっきり見えるようになった。
    糸を辿って空から光が降りてきていた。太陽の光を鏡で反射させた時の様な、目に刺さる光だった。
    光は点滅していて、目の上に手をかざしてよくよく見ると、その上に糸は無かった。
    僕は身を乗り出し、その光を良く見ようとした。
    ランドセルが重かったのが原因だと思う。僕はその瞬間バランスを崩して、頭から池に落ちた。
    でもそこで不思議なことが起こった。
    僕は頭から池に落ちた。でも、水面に顔が触れた瞬間、僕は『水の中から顔を出していた』。
    タイムラグは無い。記憶違いでもないと思う。
    惰性で僕はいったんお腹のあたりまで水面から飛び出すと、また重力で頭まで沈んだ。今度は普通に水の中だった。
    ここは当然、パニックに陥り溺れかけるべきなのだろうけれど、僕は割と冷静だった。
    池は背伸びすれば足がそこに届くくらいの深さだった。
    ランドセルが背になかったので、目をぬぐいながら手探りで見つけて、また背負った。
    不思議な体験だったなあ。と思いながら、僕は池から道路に上がった。
    最後にもう一度池を振り返ったけれど。糸はもう伸びてはいなかった。

    そしてその帰り道、僕は何故か帰り道を間違え、家に帰るのがだいぶん遅くなった。

    家に帰ると、母はびしょ濡れで帰ってきた息子に驚いた様子で、「あらまあ……、なんぞね、そら」と訊いてきた。
    僕は「つられた」とだけ答えた。
    その日からだった。僕が文字の読み書きが出来なくなったのは。
    先生も困り顔だったが、僕はあの時池に落ちたせいで頭が悪くなったのだと、勝手に思うことにした。
    文字の問題は、その後普通にできるようになった。

    その後、僕が池に落ちてから一週間くらい経ったある日のこと、あの池から子供の水死体が見つかった。
    不思議だったのは、その一週間の間、街の近辺で行方不明となった子供がいなかったこと。だから発見も遅れた。
    持ち物は持っておらず、何処の、誰の子供かも分からず。
    その身元不明の死体は、一時期話のタネになった。

    そして僕はと言うと、今でも健康診断の際は、聴診器を持った先生に「?」という顔をさせている。
    心臓の位置が少しだけおかしいのだそうだ。

    原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「なつのさん」 2011/04/02 20:55

    八月。開いた窓から吹きこんでくる風と共に、微かに蝉の鳴き声が聞こえる。時計は午後六時を回ったところ。
    陽はそろそろ沈む準備を始め、ラジオから流れて来る天気予報によれば、今夜も熱帯夜だそうだ。
    僕を含め三人を乗せた軽自動車は、川沿いに伸びる一車線の県道を、下流域から中流域に向かって走っていた。
    運転席にS、助手席に僕、後部座席にK。いつものメンバー。
    ただ、Kの膝の上にはキャンプ用テント一式が入った袋が乗っていて、
    車酔いの常習犯である彼は身体を横にすることも出来ず、先程から苦しそうに頭を若干左右に揺らしている。
    僕らは今日、河原でキャンプをしようという話になっていた。
    Kが持つテントの他にも、車のトランクの中には食料や寝袋、あとウィスキーを中心としたお酒等も入っている。
    夜の川へ蛍を見に行こう。
    言いだしっぺはKだった。何でも、彼は蛍のよく集まる場所を知っているらしい。
    意外に感じる。
    Kはオカルティストで、いつもならこれが『幽霊マンションに行こうぜ』 やら、『某自殺の名所に行こうぜ』となるのだけれど、
    今回はマトモな提案だったからだ。
    「蛍の光を見ながら酒でも飲もうぜ」とKは言った。
    反対する理由は無い。でもそれだと車を運転する人が、つまりSが一人だけ飲めないことになる。
    「お前だけジュースでも良いだろ?」と尋ねるKにSは、「お前が酒の代わりに川の水飲むならな」と返した。
    だったら、不公平のないよう河原で一泊しようという話になった。キャンプ用品はSが実家から調達してくれた。

    川の流れとは逆に上って行くにつれ川幅は徐々に狭くなり、
    角の取れた小さく丸い石よりも、ごつごつした大きな岩が目立つようになってきた。
    D字状に旧道と新道が別れているところに差しかかる。
    山沿いに大きくカーブを描いている旧道に対して、新道の橋はまっすぐショートカットしている。
    車は旧道の方へと入って行った。

    川を跨ぐ歩行者用の吊り橋のそばに車を停める。吊り橋の横には河原へと降りる道があった。
    僕とSの二人で手分けして荷物を河原まで下ろす。その荷物の中には、車酔いでダウンしたKという大荷物も含まれていた。
    川はさらさらと音を立てて流れている。川幅は十四,五メートルといったところだろうか。
    対岸はコンクリートの壁になっており、その上を県道が走っている。
    時間が経ち、陽の光が弱くなるにつれ、透き通っていたはずの緑は段々と墨を垂らしたように黒くなってゆく。
    蛍の姿はなかった。出て来るのは完全に暗くなってからだと、ようやく回復したらしいKが言う。
    「雲も出てるし、風邪もねえし、絶好の蛍日和じゃん」
    蛍は、自分達以外の光を嫌うものらしい。それがたとえ僅かな月明かりでも。
    「Kって蛍に詳しいん?」
    「蛍だけじゃねえよ。俺は昆虫博士だからな。なにせヤツらは、そもそもは地球外から降って来た宇宙生物って噂だし」
    ああなるほど、と僕は思う。

    そんなこんながあってから、三人でテントを張った。
    河原では地面にペグが打ちこめないため、テントを支えるロープを木や岩などに結び付ける。
    五~六人の家族用のテントなので、中は結構広い。
    そのうちKが、小型ガスボンベに調理用バーナーを取り付けて鍋を置き、湯を沸かし始めた。
    テントを張る時の手際を見た時も思ったけれど、Kは意外とアウトドア派なのだろうか。
    Sに尋ねてみると、「……おかげでガキの頃は色々連れ回された」と嘆いてから、「いや、今もだな」と付け加えた。
    それからKは、大きな石を移動させて大雑把な囲いを作ると、周りの木々を集めて組み立て、たき火を起こした。
    僕も手伝おうと薪を拾ってくると、「そりゃ生木だお前。煙が出るだけだぞ」と笑われた。

    夕食が完成した頃には陽はだいぶ落ちて、辺りはオレンジ一色だった。
    夕食は、ぶつ切りにしたキャベツやニンジンや玉ねぎやナルトや魚肉ソーセージを一緒くたに放りこんだ、
    ぞんざいなインスタントラーメン。
    でも見た目はアレでも味は中々で、鍋はすぐに空になった。
    ラーメンが無くなると、紙コップにウィスキーを注いで、三人で乾杯した。
    残ったキャベツやソーセージをつまみに。Sは何もなしで飲んでいた。
    たき火の火に誘われてか、小さな虫たちがテントの周りに集まって来ていた。
    蠅を一回りでかくしたような虫に、腕や足などを何箇所か噛まれて痒い。
    「テジロちゃんだな」とKが言った。
    何でも、捕まえてよく見ると、前足の先が白いんだそうだ。だから手白。
    「よっしゃ、捕まえてみるか?」
    「……蠅を見に来たわけじゃないでしょうが」
    「そりゃそうか」
    僕らは蛍を見に来たのだ。
    「まだ出てこないね」
    時刻は午後八時を回っていた。辺りはもう十分暗い。
    「そろそろだろーな」
    そう言うとKは立ち上がり、空の鍋に川の水を汲んできて、たき火の上にそれをかけた。
    火が消え、辺りは目に見えて暗くなる。雲が出ていて月明かりもない。
    辛うじて、テントの入口あたりに置いておいたガスランタンの小さな光だけが、視界を奪わないでくれていた。
    暗闇の中、僕らはしばらく何も喋らず、黙ってウィスキーを胃袋に放りこんでいた。

    「……そう言えば、お前らには話してなかったっけか」
    沈黙を破ったのはKだった。
    「この辺りじゃあな、数年に一度、丁度これくらいの時期に、蛍が大量発生するんだとよ」
    興味を引かれた僕は、「へえ」と相槌を打つ。
    「数年置きとかじゃなくて、本当にランダムなんだそうだ。研究者の間でも確かな原因は分かってない。
     ……でもな、この辺りじゃ、密かに噂されてる話があってな」
    Kの表情は分からない。輪郭は辛うじて分かるけれど、この明かりでは互いの表情までは見えなかった。
    「この川な。下流はそうでもないが、中流辺りだと突然深くなる場所とか、渦を巻いてる箇所とかあってだ。
     けっこう溺れて死ぬ奴がいるんだわ。近隣の小学生とか特にな。
     もちろん、そういう場所は遊泳禁止には指定はされてるんだが、……ま、子供の好奇心にゃ勝てんわな」
    僕はふと、自分のコップが空になっていることに気付いた。ウィスキーのビンを探したけど、見えない。
    「まあ、そうは言っても、数年に一人か二人だけどよ。
     でも、重なるらしいんだよな。水死者が出た年、蛍が大量発生する年。
     ……ああ、わりいわりい。ウィスキー俺が持ってるわ」
    Kが僕の方にビンを差しだし、僕はKに紙コップを差しだす。
    タタ、と音がして、辛うじて白と分かるコップに、何色か分からない液体が注がれた。
    「……今年は、その、溺れた子がいるん?」
    一口飲んで、焼けるような喉の刺激が去ってから、僕は尋ねる。
    Kは「うはは」と笑って、「そんなこたぁ、俺はシラネー。ここには蛍を見に来ただけだからな」と言った。
    「んでだ。その話には、もう一つ不思議なことがあってな」
    Kが続ける。
    「日本で見かける蛍ってのはさ、ゲンジボタルかヘイケボタル、大体この二種類でな。
     ゲンジボタルの成虫が出るのは、五月から六月、遅くて七月上旬にかけてだから。
     そうすると、八月のこの時期に出るのは、ほぼ年がら年中見られるヘイケボタルってことになる」
    Kは本当に昆虫に詳しいらしい。
    こういう風に、なるほどと思える話をKから説明されることは珍しいので、何だか違和感を覚える。
    いつもならそういう解説はSの役目なのだけれど、彼はさっきからつまみも挟まず静かに飲んでいる。
    「でもヘイケボタルってのは、集団発生はしねーんだよ。
     年がら年中見れるってこたぁ、成虫になる時期が同時でないってことだ。
     逆に、皆そろって成虫になるのは、ゲンジボタルの方なんだけどよ。
     でも、ゲンジはこの時期にゃあ交尾終えて死んでるし」
    酔った頭でも何となく理解出来た。
    つまり、Kはこう言いたいのだ。
    「……つまり、大量発生するその光は、ホタルじゃないかもしれない、ってこと?」
    「おうおうおう!何だ、察しがいいじゃねーか。……
     ま、普通に異常発生したヘイケボタルっつう可能性の方が高ぇだろうけどよ」
    「蛍じゃなかったら、なんなのさ」
    「シラネーよ。見たことねえし。でもまあ強いていやぁ、そうだな。……鬼火とか、人魂とか、怪火の類?」
    「……今年も見れると思ってるんじゃない?」
    「シラネーシラネー」
    そう言ってKは「うはは」と笑った。
    またオカルト絡みか。今日はただ蛍を見に来ただけだと思っていたのに。
    蓋を開けてみれば、やっぱりKはKだったということなのだろうか。
    その時、今までずっと沈黙を守っていたSが、ふと口を開いた。
    「出てきたぞ」
    その言葉に、僕はハッとして川の方を見やった。
    何も見えない。じっと目を凝らす。
    ちらと、青い火の粉のような何かが視界の隅に映った。それを区切りに、河原に無数の青白い光が浮かび上がる。
    突然、辺りがさらに暗くなった。KかSのどちらかが、テント前のガスランタンの光を消したからだろう。
    おかげで目の前の光がよりはっきりと見えるようになった。
    光は明滅していた。それも飛び交う全ての光が同じタイミングで消えては光る。
    それはまるで、無数の光全体が一つの生き物のように思えた。
    時間の経過とともに、光は更に数を増していった。河原を覆い尽くすかのように、僕らの周りにも。
    思考も感覚もどこかへ行ってしまい、目だけがその光を追っていた。
    度の強いウィスキーのせいで幻覚を見ているんじゃないかと疑う。それほど幻想的な光景だった。
    雲に隠れた星がここまで降りてきたかのような、そんな錯覚さえ抱く。
    「もの思へば、沢の蛍もわが身より、あくがれ出づる、魂かとぞ見る……」
    ふと、我に返る。Sの声だった。
    「……何それ?」と僕が訊くと、「和泉式部」とSは言った。
    「誰それ」とさらに尋ねると、溜息が返って来た。
    「お前、文系だろうが」

    それから数時間もの間。僕らはただ、目の前の星空を眺め続けた。飽きるという言葉すら浮かばなかった。
    時間はあっという間に過ぎた。
    その内に少しずつ数が減ってきて、時刻が夜十時を過ぎた頃、光は完全に沈黙した。
    Kがいったん消した焚き火を組み直し、火をつける。
    つい先ほど見ていた光とはまた別の火の光。ぱちぱちと薪が燃えて弾ける音がする。
    「昔の人は、人間に魂があるとすれば、それは火の光や蛍の光のようなものだと考えたんだが……。
     今のを見れば、まあ分からなくもないな」
    手の中で空の紙コップを弄びながら、Sがぽつりと言った。
    あの数は大量発生と言えるのだろうか。だとすれば、今年も誰かが川で溺れて亡くなったのだろうか。
    感動と共に、僅かな疑問が頭をよぎる。
    「……あ、そう言えばKって、虫取り網持ってきてたよね。使わんかったん?」と僕はKに尋ねる。
    おそらくは、あの光が人魂か虫かを確かめるためには、捕まえるのが一番手っ取り早いということで持ってきたのだろう。
    「ああ、忘れてたな……。ま、いいや。ありゃ人魂とかじゃねえよ。蛍だ。集団同期明滅してたし」
    蛍だった、とKは言いきった。
    「ああ、あの同時に消えたり光ったりしてたやつ?」
    「そ。ありゃ蛍の習性だからな。ああやって、同時に光ることで雄と雌を見分けてんだよ」
    「ふーん」
    「……あーあ、でも俺ぁてっきり、今までに死んだ水死者の魂が、飛び交ってんだと思ってたんだけどなあ」
    ただ、そういうKの顔に落胆の色はなかった。あれだけのものを見たのだ。満足しない方がおかしい。
    僕たちはそれから焚き火を囲んで少し話をして、三人でウィスキーを二本ともう半分開けてから、寝ることにした。
    興奮はしてたものの相当酔っていたので、熱帯夜にもかかわらず、すぐに眠りにつくことが出来た。

    次の日の朝。起きると、テントの中に残っているのは僕が最後だった。
    外に出ると、Sは河原の石に座って釣りを、Kは底が硝子になっているバケツを川に浮かべ、網を持って何かを探していた。
    その日は、すっきりと雲ひとつない天気だった。
    川の水で顔を洗ってから、釣りをしているSの元へと行ってみた。
    「釣竿なんか持ってきてたっけ?」と僕が尋ねると、「昨日、そこの茂みで拾った」と言う。
    じゃあ餌は何を使っているのかと聞けば、昨日の内にテジロちゃんを捕まえておいたので、それを使っているらしい。
    見せてもらうと、テジロは本当に手の先が白かった。
    ちなみにSはこの後、立派な岩魚を二匹釣るという快挙を成し遂げた。
    塩焼きにして昼飯になったのだけれど、すごくおいしかった。
    Kの元へ行くと、彼はゴリという名の小魚を捕まえようとしているらしい。
    ちなみに彼はこの後ゴリを十匹ほど捕まえ、それは昼飯の味噌汁の具になるのだけど、
    ゴリは骨ばっててとても不味かった。

    二人共元気なことだ。などと思いながら、僕は河原を行ける所まで散歩していた。
    その時、ふと足元に黒い昆虫の死骸が落ちていることに気がついた。
    十字の模様がついた赤い兜に、黒い甲冑。拾い上げてみると、それは一匹の蛍の死骸だった。
    そのまま持ち帰ってKに見せてみた。
    「おう。蛍だな」
    ちらりと見やりそれだけ言うと、Kはまた腰をかがめて水中に意識を戻した、かと思うと、
    がばと起き上がり僕の腕を掴み、もう一度その蛍の死骸を見やった。
    「ゲンジボタルじゃん……」とKは呟いた。
    「ゲンジボタルなん、これ?」
    「ああ、頭のところに十字の模様があるだろ。てっきりヘイケボタルかと思ってたけど。
     ……でも、何でこんな時期に出て来てんだコイツ。一,二月くらいおせぇのに」
    僕はもう一度、自分の手の中のゲンジボタルの死骸を見つめた。
    Kは「おっかしいな~」などと言いつつ、ズボンから携帯を取り出すと、何かを調べ始めた。
    おそらくインターネットで、ゲンジボタルの生態でも確認しているのだろう。
    「……あ?」
    しばらくして、Kが妙な声を上げた。携帯の画面をじっと見つめている。
    「……どしたん?八月でも出ますよってあった?」
    「いや、そうじゃねえけど。いや、これは俺も知らんかったわ」
    「だから何が」
    Kは開いた携帯の画面を僕に見せながら言った。
    「ゲンジボタルの学名だ。……『Luciola cruciata』 ラテン語で、『光る十字架』だとよ」
    頭部の辺りに見える黒い十字が見えるけれど、これが十字架なのだろうか。
    「……何を祝福してんのか知らんけど、溺れた奴が全員キリスト教でもねえだろうにな」
    そう言ってKは「はは」と小さく笑った。
    光る十字架。
    僕は昨夜の光を思い出す。
    ゲンジボタルが光る時期より一,二ヶ月遅れたこの季節は、子供たちが川で遊ぶ季節だ。
    そうして人が溺れて死んだ年だけ、光る十字架たちは飛び回る。
    全くの無関係なのだろうか、それとも。
    ふと、昨夜Sが口ずさんだ歌を思い出す。
    あの後、Sにあれはどういう意味かと訊くと、彼は面倒臭そうにこう言った。
    『恋心に沈む自分の魂を、蛍にたとえた歌だ』
    昔から、人は人間の魂を蛍の光に例える。
    僕は首を振った。僕には何も分からない。

    昼食が終わった後、僕らはテントを片付けて荷物を車に運び込んだ。
    出発する前にKが「ちょっと待ってくれ」と言い、半分残ったウィスキーの瓶を持って、吊り橋の上へと向かった。
    何をするのかと見ていると、Kは橋の上からウィスキーの瓶をひっくり返し、残っていた液体を全て川へと振りかけていた。
    「よ、待たせたな」
    戻って来たKに、何をしていたのか尋ねようかとも思ったけれど、止めておいた。
    Kは何も言わなかった。だったら、こっちから聞く必要もないだろう。

    車のエンジンがかかり、僕らは川を後にする。
    「いやぁ、でも、良いもの見たしね。楽しかった」
    走り始めた車内で、僕は本心を言った。
    「そうだな」と珍しくSも肯定してくれたので、「また機会があれば、行こうよ」と二人に提案してみる。
    「おう、そうか。だったら、次は山だな」とKが言う。
    「かなり遠いけどな。昔人喰いクマが出て有名になった山があってな」
    いやそれはちょっと勘弁してくれ、と僕は思った。

    このページのトップヘ